今日も行って来たら…いいことがあった。
一人で黙々と練習している私くらいの女性がいて…滑っているのを見ていると、
「自分はダメだ、何回やってもできない、なんでだろう?」
と内心、言いながら、滑っていることが分かる。
そのお姉さんに、「すごいですね!地球の裏側までドリルで掘れそう!」と言って、スピンを褒めたら、お姉さんの返事は、「全然出来ていないんですぅ」というものだった。やっぱりなー。
そこで、そのお姉さんに
「大丈夫!みんなから見たら、すごい上手ですから!!」
と言ったら、お姉さんは、とっても嬉しそうだった。
他者承認で動機付けをしてしまうと良くないと思っているので、人を褒めるのも苦手だ。
なぜなら私自身が褒められると、コントロールを感じてしまい、褒められるのは荷が重いからなのだが、今日は、褒めたつもりはないが、うまく相手の気持ちを緩めることができたみたいで、うれしかった。
一方、3時になっていないのに、子供たちがわらわらと出てきてしまい…子供たちは、どうだ!おれ!褒めてくれ!とばかりに、技を見せつけて来る。これは、もう小学生からそうみたいだ…。
やれやれ… そんなに褒められたいのー、でも、君の年齢でそれくらい滑れる子は普通だよ~、いっぱいいるんだよーと思ったりした。思っただけで何も言わずに、黙々と私は滑るだけなのだが…。
大人が努力する姿を見せるのが、教育なのではないか?と思っている。違うかもしれないが。
それにしても、バックは好調である。
コツコツと努力する、というのを私は一体どこで覚えたのだろうか?勉強でも同じことをして、テニスでもそうで、まずは、”続ける”、ということをテーマにしたら、遅かれ、早かれ、習得するタイミングが来る、ということについては、信頼感がある。
その信頼感は… いったいどこからか?と自分に問うても、やはり、信頼している、としか言えない。
まず、決める。そして、必要な基礎力貯金を行う。そして、あまり周囲のことを気にしない。ほかの人と比べない。頑張り教に入信しないように気を付ける。自分に多くを期待しすぎない。
そんなところだろうか… 落とし穴というのは…。
あ、そうそう…。誰かが競争を仕掛けてきたら? 乗らないことにしている。
それから、「あなたには向いていないんじゃない?」とか言ってきても… 乗らないことにしている。
大体、英語を話せるか話せないか?に向き不向きなんてあります?ないよねぇ。だって日本人なら、全員、日本語、話せますよね?だから語学の習得や、運動の習得に、向いている向いていないというのは、ちょっと人より早いか遅いか程度のことであり、根本的に出来ないという意味には解釈しづらいと思う。
向いていない、って、そりゃ、変えることができない身体特徴などで限定されることはそりゃ向いていないだろう…たとえば、私は、エイドクライミング課題には向いていない…なぜなら、背が低くて、同じアブミの最上段に立っても、次のボルトに手が届かないから。だれかほかの人がやったほうが効率が良いでしょう…
しかし、食べる、寝る、と同じことで、歩くことが向いていない人間はいないし、スケートだって、自転車だって、同じことなのだ。クライミングも。
私にとって、変えることができない身体条件にとって不利なように、ゲームが作られている、というスポーツは存在する。例えばバスケットボールとかね…。
だから、努力をするときに、土俵を選ぶのは大事だと思うが、それとできる・できない、才能のある・なしを混同しないことが大事だと思う。
■ 総括
0 件のコメント:
コメントを投稿